東海道五十三次之内 神奈川・台之原 (安藤広重の絵より)
台町の急坂にかかると、街道筋には ずらりと茶店が軒を並べる。波打ち際 の景色を見ながら、飲食が楽しめた。 今はすっかり内陸に追いやられて海は見えず、台町という地名を残すのみで ある。
現在の台町の坂 (横浜駅西口近くの高台)
かつては茶店が立ち並んでいた。 マンションが立ち並び昔日を偲ぶ すべもない。写真、左手手前の料亭 田中屋だけが、江戸時代から今なお営業を続けている。
この宿が全国の注目を浴びるようになったのは、幕末の安政元年(1854)にアメリカ合衆国のペリー提督が来航し、横浜で神奈川条約(日米和親条約)の交渉の拠点となってからである。 アメリカ施設との直接交渉は、外国人との接触を避けるため僻地の横浜村(現在の中心地)で行われ、幕府側の使節は神奈川を宿舎として、横浜まで船で出向いて行われた。 その一年前、初代アメリカ総領事ハリスは伊豆下田から江戸に向かっている。 安政四年(1857)11月28日、当時の神奈川宿の様子をハリスは次のように書き記している。少し長いが、非常によく当時の神奈川宿付近の様相を記しているので引用する。
午前七時に藤沢を立った。江戸に近づくにつれて、次第に平野が広潤となり、道路は非常に気持ちがよい。東海道は小田原から全く海岸に近く走り、相模半島を横切るところが海から遠のいているだけだ。 道路に沿って1856年の台風による被害の跡が多数見られる。富士山は、それから遠ざかるにしたがって姿がよく見えはじめる。途中の村々は昨日通った村々よりも大きく、いっそう密接に連なってている。人々はいずれも祭日の晴れ着をきて、私が通るとき、彼らの家々の前の席にひざまずいている。 正午に神奈川に泊まり水辺のきれいな本陣に休息する。神奈川はペリー提督の談判が行われた場所なので私にとっては興味ある場所である。私はこの家から、ペリー提督の艦隊が碇泊した横浜の湾を見渡す。私は神奈川と横浜の中間ぐらいのところに、三隻の欧州型のしかもその式の装備をもった船が、二隻のスクーナー船とともにあるのを見て大いに驚いた。 これらの船は、日本政府が海軍を創建するためにオランダから購入したものである。神奈川から北東にあたって、オランダ人から日本人に贈られた蒸気船を見た。神奈川は繁栄する町の様相を呈している。ケンペルが記述した当時よりも、ずっと大きくなっている。 神奈川は江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれる時には、非常に大切な場所となるに相違ない。 私は惜別の情をもって神奈川を去り、川崎に向かった。 ここから警視の一団が村役人の先頭に立つようになった。彼らはめいめい、太さ約半吋長さ六吋の鉄棒を携えている。その鉄棒の頂端の穴を通して、四つあるいは五つの鉄の輪がつけてある。その度にジャンジャンと高い音を立てる。彼らは一定の調子をとってかわるがわるに棒で地面を突く。これは異なった鉄輪の音色によって、一種の音楽を奏でる。 見物人の数が増加してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧乏もない。これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私はときとして、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たして、この人々の普遍的な幸福を増進する所以であるのか、どうか、疑わしくなる。 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも、より多く日本において見出す。
翌年の安政五年(1858)には日米修好通商条約が結ばれ、また翌年には横浜開港となり、日本は次第に開国・開港への道を歩み始めていった。 条約の締結にともない神奈川は開港されたが、外国人の殺傷事件が頻発したため幕府は台町など二ヶ所に関門を設置し、対策を講じたが、宿場という繁華街であることから、港も横浜に変更された。 神奈川には奉行所が置かれ、宿場内の寺院が各国の領事館に当てられることとなった。アメリカは横浜への変更は条約違反であると抗議したが、神奈川の海は浅く港としては横浜の方が優れていた。結果的には横浜が開港され、神奈川は文久三年(1863)閉港となる。 かつて海辺の宿場町であった神奈川だが、開国の歴史を秘めた寺院がいまも並び、台町の坂にはマンションが立ち並び昔を偲ぶことはできないが、広重の絵そのままの傾きをみせている。